グイノ・ジェラール神父の説教



A 年

聖週間

復活節から

キリストの聖体の祭日まで




枝の主日
聖木曜日
聖土曜日
復活祭の祝日
復活節第2主日
復活節第3主日
復活節第4主日

復活節第5主日
復活節第6主日
主の昇天の祝日
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭日




       枝の主日 A年   2014413日     グイノ・ジェラール神父

         イザヤ50,4-7  フィリピ 2,6-11  マタイ 26,14-2766

    イエスは死ぬ時まで、父なる神にご自分の愛を示すために忠実でした。 同時に、終わりまでイエスは私たちにもご自分の愛を忠実に現しました。 自由に承諾したご受難を通して、人々の心の内に纏いついている罪と死のエネルギーをイエスは止め、滅ぼしました。 この罪のエネルギーは、律法学者たちとファリザイ派の人々を憎しみの渦に巻き込みました。 この罪のエネルギーは、ピラトを無責任、そして群集を無関心の行き止りに導きました。 この罪のエネルギーは、弟子たちを眠りと恐怖に落とし入れ、逃げさせました。 この罪のエネルギーは、ユダにイエスを引き渡させ、ペトロにイエスを否定させました。

   この悪の爆発を前にして、この暴力の渦の真っ只中で、イエスは終わりまで愛する人として現れます。 十字架の上に掛けられても、イエスは終わりまで全人類に愛の眼差しを注ぎ続けました。 預言者イザヤが知らせたように、確かに「イエスは逃げずに、逆らわずに、背を向けて退くことはありませんでした。 イエスは、打つ者たちには背中をまかせ、髭を抜く者たちには頬を委ねました。 イエスは、あざけりと唾から顔をそらせませんでした(イザヤ・第一の朗読)。

   もちろん、受難の時が近づくとイエスは生き苦しいほどの不安に落ちたことは確かです。 また十字架上でイエスは父なる神に見捨てられたとを感じました。 それにもかかわらず、イエスは自分の人生を今まで生きてきたように 愛の内に、忠実に、自分の受難を生きようとしました。 イエスの死は捧げられたものでした、ちょうど神から自分に委ねられた使命を果たすためにイエスが自分の命を与えたと同じように。

   今日の典礼の色は赤です。 この色はキリストの殉教と彼の流した血を思い起こさせます。 同時にこの赤い色は、イエスの死刑の宣告の理由を思い起こさせます。 ヘロデ国王のマントを着せられているナザレのイエスは「ユダヤ人の王」です。 しかしイエスは僕の身分を取った珍しい王だと聖パウロが教えています。 「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の姿で現れました」(使徒パウロ・第二の朗読)。 私たちが生き残るようにイエスは死にました。 イエスの権能とは愛の力であり、罪と死を完全に滅ぼす愛の力です。

   聖木曜日の夜、晩餐の時にイエスは「わたしの記念としてこれを行いなさい」と私たちに願いました。 イエスが自分の命を捧げて愛を示したように、同じ愛をもって、私たちもイエスと共に自分自身を捧げるように召されています。 沈黙の内に、この偉大な神秘について黙想しましょう。 そして、自問しましょう。 つまり、神と隣人に対する私たちの愛を示すために、更にこの愛に忠実に、ねばり強く続けるためにどのようにしたら良いかについて真剣に考えましょう。 アーメン。



         聖木曜日A年     2014417日     グイノ・ジェラール神父

            出エジプト12,1-811-14  1コリント11,23-26  ヨハネ13,1-15

   コリント教会の人々への手紙を通して聖パウロが語るのは、主の晩餐についての最も古い証しです。 聖書の博士たちの話しによると、この手紙はキリスト紀元後56年に書かれたもので、晩餐の出来事のおよそ25年後のものです。 聖パウロが伝えるこれらの出来事を書いた時、彼は主から直接にいただいたものであり、そしてそれは既に初代教会の伝統的な儀式となりました。 一世紀の終わりに書かれた聖ヨハネの福音は、主の晩餐については何も伝えずに、ただイエスが弟子たちの足を洗ったことを伝えています。

     弟子たちの足を洗って、イエスは「わたしがあなたがたにしたことが分るか?」と尋ねます。 イエスがなさったことは分かり易いです。 なぜなら、イエスが数時間後に行うこと、即ち「自分の命を与える事」を理解させるために、この洗足をきっかけにしたからです。 従って、聖ヨハネが証しした事実、つまり私たちに対する神の偉大な愛の神秘を、今夜、私たちは祝っています。

   「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたことは、次のことを意味します。 全人類の為にご自分の命を与えるイエスの愛の行いを 私たちが自分の生き方の中に再生しなければなりません。 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもしなさい」とイエスが言われたのは次の意味です。 つまり、私たちは具体的な愛の行いによって、兄弟姉妹である他の人々の世話をすること、人々に奉仕することを意味します。

    兄弟姉妹の足を洗うことは、それは人生の道を歩いて受けた汚れの跡を消すことです。 足を洗うことは、それはまた、私たちが隣人に与える和解と赦しの具体的な態度を示すことによって、彼らに信仰の旅を歩み続けることを可能とすることです。 どれ程神が人々に奉仕するかを、またどれ程神が彼らの人生や計画を大切にするかを、イエスは生涯に渡って終わりまで教えようとされました。 今度は私たちも神を真似て、人々が失った尊敬や好意を取り戻すように、私たちも助けざるを得ません。

   人の足を洗うことは尊敬の態度です。 弟子たちの足を洗うことによって、ご自分を受け入れても受け入れなくても、全ての人が尊敬され、あらゆる点を考慮するのは相応しいことだと、イエスは自分の弟子たちに思い起こさせます。 ですから、イエスは自分を引き渡そうとするユダの足を洗いました。 また、ご自分を数時間後に三回否定するペトロの足も洗いました。 人の足を洗うことは奉仕の行いであり、この行いによって奉仕する人はそれを受ける人の謙遜な僕となります。

   キリストの御体を受けることによって私たちはキリストの体となります。 そう言う訳で、私たちはどうしても自分の生き方の内に、イエスご自身の生き方を現さなければなりません。 この聖週間を通して、イエスの最後の言葉について考えましょう。 これらの言葉は、イエスの遺言ですから愛と尊敬をもって、イエスの遺志を実践しましょう。 私たちが示す愛は「終わりまで」続くべきです。 即ち、私たちはあらゆる面で尽くしながら、他の人々のニーズを完全に満たさなければなりません。 アーメン。



       聖土曜日A年    2014419日     グイノ・ジェラール神父

           ローマ6,3-11    マタイ28,1-10

   聖土曜日の典礼によって、私たちは信仰の泉に戻ることが出来ます。 全人類の始まりや神の民とキリスト教の由来を思い起こすことによって、私たちは今夜、象徴的に信仰の泉に近寄ります。 それを思い出させることで私たちの信仰が成長し、同時に私たちの心に希望と活気が溢れます。

   復活の蝋燭に書かれている通りキリストは「アルファとオメガ」であり、「全てのものの初めと終わり」です。 今夜、私たちはイエスの死と復活を、唯一の出来事にして祝っています。 同時に私たちは、宇宙万物や全人類の歴史と神の永遠の流れを唯一の祝うべき出来事として祝います。

  「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と使徒パウロは宣言します。 確かに、キリストの復活は私たち皆に関係のある出来事で、それは何も越えられない、人々の人生の最も重大な出来事です。 実際、主キリストが復活していないなら、私たちの仕事や所有物や、社会的や家族的な絆や計画やその他の物事すべては、もはや無意味です。 何故なら、キリストの復活は、私たちの人生と永遠の命の中心ですから。

  そう言う訳で私たち一人ひとりにとっては、キリストの死と復活の神秘の中心に生きていかなければならない重大さがあります。 人の人生が死ぬ時に終わるなら、この人生は無意味で、値打ちのない人生です。 もし、死と共に全てが根本的に終わるなら、私たちは空しく生きるために物質なものを集め大切にします。 また、自分の健康を守り、育てた子供たちを愛するなどは全く役に立ちませんし、それは無駄な力を尽くしているのです。 幸いなことに、私たちの幸福が永遠に続くことや、悪がもう私たちに害を与えないことや、愛がずっと私たちの心から湧き出ることを、神は永遠の昔から望んでおられます。 そのために神は私たちの日常生活の苦労を祝福しながら、私たちに復活の恵みと永遠の命を与えてくださいます。

  ご自分の子イエスを死から解放されたと同じように、神は私たちをも死から真の命へと移させます。 私たちは皆、必ず苦しみと試練の人生から出て、死を通して終わりのない幸せという命の充満に入ります。 これこそ神の約束です。 お母さんの胎内にいる子は、命が何であるかを全く想像できません。 同時に、時の流れの囚人である私たちも、神が用意され、無償で与えて下さる永遠の命を想像できません。 ある日、天に私たちを迎える父なる神は次のように言われるでしょう。 「ようやく、あなたは生まれ変わった! あなたは永遠に私の子です。 あなたを愛しています!」と。 私たちの内に誰が神の父性と母性を想像できるでしょうか? ご自分の死と復活によってキリストは、私たちの人生の意味を示し、どれ程私たちが神の目には尊い者であるかを教えています。

   生きる事とは、死に下ることではなく、むしろ永遠の命に上がることです。 ですから「道、真理、命である」キリストに従って、キリストに安全に導かれて、私たちを待ち望む父なる神の方へ進みましょう。 ミサ祭儀に与かる度に、私たちは罪と死に打ち勝つ力を受けています。 キリストに結ばれているなら、必ず悪と死に対する勝利を受け、既に天使と聖人たちの喜びを味わうことが出来るのです。 何故なら、ご自分の死と復活によって、キリストは私たちのために天の門を大きく開いてくださったからです。 アーメン。



       復活祭  A年    2014420日    グイノ・ジェラール神父

           使徒 10,34,37-43  コロサイ 3,1-4  ヨハネ 20,1-9

   復活の朝、三人の人が開かれた墓の前で立っていました。 彼らは今までになかった珍しすぎる出来事の証人となるのです。

   最初にイエスの墓に辿り着いたのは婦人で、マグダラのマリアでした。彼女は 朝早く、まだ暗いうちに葬儀の服を着て、愛するイエスに最後の尊敬のしるしを現すために、エルサレムの町を走りました。 イエスの遺体に塗るために、彼女は香料を持って来ました。 この最後の尊敬のしるしを行うことで、マグダラのマリアは、かつて、自分を七つの悪霊から解放してもらったイエスに、自分の心の愛と感謝の意を表そうとします。 そう言う訳で私たちにとってマグダラのマリアは感謝で満たされた愛、無償の愛の象徴です。

   マグダラのマリアは、どんな状況に置かれていても、諦めずに愛の内にねばり強く留まることを私たちに教えています。 時々、愛する力を失ったと感じて、私たちは愛することは無駄であり,役に立たないと思いがちです。 また、度々、愛しても、その愛が他の人に受け入れられないと分かるので、無気力になって私たちはもう何もする気がしません。 そんな時こそ、マグダラのマリアを思い起こし、勇気を発揮しましょう。 何故なら、彼女はイエスの掟に対して忠実だったからです。 「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15,9)とイエスは命令しました。 示された愛と激しい涙のお陰で、マグダラのマリアはキリストの復活の最初の証人となりました。 彼女は至る所で、愛が悪と死に打ち勝つことを宣言する使命を受けました。 雅歌の愛するものと声を合わせて、マグダラのマリアは「愛を滅ぼすものは決してありません」(雅歌8,7)と喜び歌うでしょう。 神は愛であり、復活と永遠の命でもありますから。

   イエスの墓に辿り着いた二番目の人はヨハネです。 ヨハネはイエスが愛した弟子です。 また、ヨハネだけがイエスの遺体が墓に葬られるまで、イエスの傍に留まった忠実な弟子です。 今日、息切れのしているペトロと遠く離れて、ヨハネは自分の若さと愛の飛躍で墓まで走りました。 彼は「見て信じた」と証ししています。 一体ヨハネは何を見ましたか? 何も…。 イエスの開かれた墓は空っぽで、ヨハネは何も見ませんでした。 しかし、そのお陰でヨハネはすぐ復活の出来事を信じました。 開かれた墓と残された亜麻布や丸めてあった覆いはヨハネに悟りを与えました。 約束したように「キリストが復活した」とヨハネは解かりました。

   私たちにとってヨハネは信仰の象徴です。 この信仰は物質的に確かめることの出来る証拠を支えとせずに、ただ神の言葉だけを揺るぎないものとします。 イエスの言葉が真実であり、私たちはその言葉に信頼を置くことが出来るとヨハネは証しします。 イエスの言葉は、神のみ言葉と等しいものです。 「神の口から出る言葉は、空しく神のもとに戻らない。 神の望むことを成し遂げ、神が与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55,11)と神ご自身が証ししています。 キリスト自身の内に、またキリストの効果的な言葉の内に信頼を置く人は、必ず、聖ヨハネのように復活の喜びを味わう証人となります。

   イエスの墓に最後に辿り着いた人はペトロです。 彼は三日前に意識して、キリストを否定する責任を持って、イエスを三回否定しました。 しかし後に自分の過ちを認めながら、神の憐れみの内に希望を置きました。 確かにペトロの心の中に赦される確信が芽生えました。 「絶えず赦さなければならない」と言うキリストの言葉を信じてペトロは「希望のないときに、望みを抱いて信じました」(ローマ4,18)。 そう言う訳で、復活の朝、開かれた空の墓を前にしてペトロは無駄に神の赦しを望んでいないことを知っています。 従って、私たちにとってペトロは希望の象徴です。 「心に責められることがあろうとも、神は私たちの心よりも偉大である」(1ヨハネ3,20)とヨハネは証ししています。 聖ペトロはそれを体験しました。 彼は自分の殉教の日までそれについて証ししました。

   復活の朝、マグダラのマリアとヨハネとペトロが開かれたイエスの墓まで走った結果、彼らは愛と信仰と希望の証人となりました。 この三つの賜物が、主キリストが真に復活されたことを証ししています。 聖霊によって、神が私たちの心に愛と信仰と希望の賜物を注がれたので(参照ローマ5,5)私たちの生き方によって、それらの賜物を上手に使って、復活されたキリストの明るい証人となりましょう。 同時に復活されたキリストに結ばれて、神の命、神の平和と赦しの喜びで満たされた宣教師となりましょう。 キリストは罪と死に打ち勝たれたので、イエスを愛し、信じる人々、そしてまたキリストに希望を置く人々が、今も永遠に主イエス・キリストの勝利を分かち合えますように。 アーメン。



     復活節第2主日A年    2014427日   グイノ・ジェラール神父

           使徒2,42-43  1ペトロ1,3-9  ヨハネ20,19-31

    第1の朗読を通して、ルカはどの様に初代教会のキリスト者が生きていたかを語ります。 初代教会のキリスト者は集まることやイエスの生涯を伝え知らせる使徒たちの話を聞くことが好きでした。 彼らは自分の持ち物を分かち合う事、一緒に祈る事でとても幸せでした。 ルカの話と今日の朗読の光によって、私たちの信仰の支えとなっている4本の柱を再発見しましょう。

  全教会を支えている掛け替えのない最初の柱は、使徒たちによって伝えられた神の言葉の歓迎です。 神の言葉を歓迎する事こそ、信仰を生み出し信仰を養います。 聖書、或いは福音のほんの少しの箇所を読み、黙想することで聖霊が私たちの内に宿り、父なる神とその子イエスに出会わせ、見せ、聞かせるのです。 丁度、初代教会の共同体と同じように私たちも「ひたすら使徒たちの教えを」聞かなければなりません。 何故なら、使徒たちはキリストの復活の証人ですから。

   私たちの第2の信仰の柱は、共同体における兄弟的な生活です。 兄弟的な生き方によって、私たちは自分たちの信仰、喜び、悲しみ、また私たちの財産や持ち物を分かち合う事が出来るのです。 例えば、日曜日の献金、教会のバザー、恵まれない人や生活が困窮している人に対する助けは、具体的に、私たちの共同体の兄弟的な生活を現しています。 私たちが行う分かち合い、施し、福祉などが全ての妨げを追い払い、そして助けたい人と自分たちの間に、新たな親しい絆を結ぶことを可能とします。 ですから、初代教会のキリスト者と同様に、私たちも自分たちの心に共同生活に基づいた偉大な愛徳を育てましょう。

  第3の信仰の柱は、「私の記念として、それを行いなさい」と言うイエスの掟を実現することです。 イエスの招きに従って私たちは、毎日曜日、復活されたキリストのそばに集まっています。 永遠の命のパンを分かち合うために神のみ言葉を聞いて、兄弟姉妹として生きようとしています。 「ミサへ行く人がキリスト者だ」と一般の人が持っているイメージは正しいです。 イエスの弟子たちと同様にイエスと出会わなかった人、即ち、全ての「トマス」に出会って、キリスト者の命を体験するように 私たちは皆を招かなければなりません。 疑う人や一人で信仰生活したい人々や或いはまた自分自身を弁明するために「私は信じますが、教会に行きません」と言う人びとに信仰の光をもたらすべきです。

 毎日曜日、復活されたイエスを祝う事で、私たちはキリストと共に死から命へ移ります。 また赦すこと、分かち合うこと、愛することをキリストから学びます。 ご聖体、キリストの体は、信仰の内に成長する可能性と教会が生き残る可能性の必要不可欠な信仰の第3の柱です。 確かに教会に於いて、神の憐れみを示すために、私たち一人ひとりがイエスの救いの振る舞いを再現することを学びます。

 教会の祈りに参加することは、信仰の第4の柱です。 勿論キリスト者は、自分の心の内にまたは自分の家の親密さの中で、一人で、或いは家族と共に、自由に祈ることが出来ます。 しかしキリスト者がイエスを通して神に唯一の賛美を一緒に捧げるために、教会と共に祈る事を学ばなければなりません。 いつも、至る所で、神に感謝することは、生き残るために自分を養うことと同じように重大です。

 ですから、信仰の柱である神の言葉の歓迎、兄弟的な生活、毎日曜日のミサ、そして個人的、共同体的な祈りに基づいて、私たちのキリスト教的な生活を築きましょう。 もし私たちの人生がこの4本の柱を持っているなら、あっという間に私たちの中に働くために聖霊が来て、私たちを愛の完成に必ず導くのです。 ですから聖ペトロと共に私たちも次の様に宣言しましょう。 「私たちはキリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じています。 聖霊は、言葉で言い尽くせない素晴らしい喜びで私たちを満たし、私たちを変容し、信仰の実りである魂の救いを受ける確信を与えます」(1ペトロ1,8-9参照)。 アーメン。



     復活節第3主日A年       201454日    グイノ・ジェラール神父

          使徒2,1422-33  1ペトロ1,17-21  ルカ24,13-35

   人生に於いてはいつか、深い絶望、思いがけない失敗、避けられない死、解決の出来ない人間的な状況が出現します。 イエスは必ずこのような状況の中におられます。 弱さと絶望の真っ只中にいる時こそ、イエスは私たちのそばに来て、一緒に歩むのです。 苦しみが重すぎる時、イエスは私たちの道ずれの友となります。

   エマオの弟子たちは、イエスについて全てを知っていました。 イエスの墓は開かれて空っぽであったことを婦人たちから聞いているし、また、ある天使がこの婦人たちにイエスは生きていることを知らせたことも知っていました。 結局、彼らはたくさんの事を知っていましたが、彼らが聖書を悟る為の知恵を持っていなかったので、彼らの心は悲しみでいっぱいでした。

   弟子たちの心が燃えるように、イエスは彼らに近寄り、そして歩きながら彼らに長く教えました。 聖書の光で、イエスはご自分の人生の全ての出来事を照らすのです。 イエスはどのようにして旧約聖書の預言と神の約束を実現したかを説明します。 良く説明された旧約聖書によって、新約聖書を理解でき、そしてイエスご自身を発見することが出来るのです。 イエスの明確な解り易い説明と聖書の特定の箇所のお蔭で、寂しくて何をしたらよいのか解らなかったエマオの弟子たちは、希望を取り戻しました。 このようにキリストによって実現された救いの神秘を理解する為に、神の言葉は彼らの助けになりました。

   私たちも度々神の言葉を読み、聞く必要性があります。 み言葉のおかげで私たちは人生の出来事の意味を見つけ、失敗したことや私たちの落胆や失望を承諾することが出来ます。 神のみ言葉を黙想することによって、私たちは自分自身とイエスへの深い親密な関係と知識に入ることが出来ます。

   しかし、それだけでは充分ではありません。 私たちがキリスト自身を糧として、いただかなければなりません。 確かに、キリストをよく知る為に聖体拝領は第二の重大な手段です。 復活されたキリストと出会いたい人は、どうしてもキリストの言葉、体と血で自分を養う必要があります。 そういう訳で、日曜日のミサ典礼はいつもみ言葉の食卓から聖体の食卓へ私たちを導きます。

   ご存知のように歩いて巡礼をする人々は(たとえばコンポステラへの巡礼)、エマオの弟子たちの体験を再現しようとしています。 と言うのは、歩きながら巡礼者たちが自分たちの生き方について、また神が自分たちに要求することについて考える時を大切にするからです。 また、巡礼者たちは様々の出会いによって、分かち合うこと、聞き合うこと、励まし合うこと、そして休むための場所を一緒に探し求めることを学びます。 言い換えれば、現在の巡礼者たちは、彼らの心を燃え上がらせる分かち合った友情と信仰と祈りの強い時を体験しているのです。

   信仰と希望の道において、一緒に何でも言えること、分かち合えることのできる一人または二人の友を持つことが必要です。 地上の旅路をしながら、愛、希望、信仰の内に成長させる必要不可欠の友を皆様が見つけることが出来るように希望します。 何故なら試練によって落胆している私たちは、自分の信仰を疑うことがあるので、私たちと歩みながら励まし合う誰かを見つけることが肝心です。 このようにして人は子供っぽい信仰を離れて、大人の信仰に与ることになります。

   永遠の命の糧としてご自分を啓示する神ご自身だけが、地上での私たちの巡礼の目的です。 その日になるまでに、私たちが自分のそばを歩いているイエスを見つけなければなりません。 なぜなら命ある限り私たちは、全ての人にキリストが復活されたこと、キリストが私たちの命と永遠の喜びであることを宣言しなければならないからです。 イエスの親密な友達となる為に、神の言葉を絶えず自分の内に受け止めることを、司祭の助けによって、或いは信仰の篤い友の助けによって学びましょう。 アーメン。



      復活節第4主日A年    2014511日   グイノ・ジェラール神父

             使徒2,14-41  1ペトロ2,20-25  ヨハネ10,1-10

  「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とイエスは言いました。 イエスは復活されました、そしてまた彼は命の門ですから、イエスが与える命は溢れるほど豊かです。 良い牧者としてイエスは私たちに自由の道を開きました。 今日のたとえ話を通して、イエスが使うイメージは すべて自由のイメージです。 ずっと開かれている羊の門から、人は入ったり出たり、行ったり来たりすることが出来ます。 イエスは人々をどこかの場所に閉じ込めるのではなく、むしろ自由な道を通して緑の牧場に導きます。

   聖ペトロは聖霊降臨の説教の中で、私たちが「命の充実」である復活を得るために、回心の門を通り過ぎることを要求しています。 言い換えれば、聖ペトロは、私たちがこの世の罪と死の世界から離れて、神の味方となり永遠の命に移動するように願っています。 この話をしてから30年後、第一の手紙を通して聖ペトロは、迫害されたキリスト者がキリストの傍にいて信仰の内に強くなるように彼らを励ましています。 「キリストはあなたがたのために苦しみを受け、あなたがたがその足跡をたどるようにと模範を残されました…あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」と。

  確かに、イエスはご自分の牧場の小さな群れを監督して守ります。 試練の中で、私たちが叫ぶ嘆きやうめきを絶対に忘れることはありませんし、無関心の内に消え失せるものではありません。 羊の世話をよくするイエスは私たちの苦しみの叫びをよく聞き分けます。 イエスは一人ひとりをその名によって呼び、次のように打ち明けます。 「あなたの前にたくさんの開かれた門があります。 それらは 楽しみ、安楽な暮らし、遊び、無関心などの門です。 私の門も大きく開いていますが、確かに私の門は狭いです。 しかし、あなたがこの門を通るなら、必ず、新鮮な草の広い牧場、豊かな命、真の平和を見つけるでしょう」と。

  他の世紀よりも20世紀は偽りの牧者に溢れています。 キリストは彼らに盗人、強盗、殺人者という名をつけました。 この人たちの本当の名前は、レーニン、スターリン、ドイツのヒトラー、スペインのフランコ、イタリアのムッソリーニ、中国の毛沢東、チリのピノシェ、ベトナムのホー・チ・ミン、ウガンダのアミン・ダダ、カンボジアのポル・ポト、北朝鮮の金日成らです。  彼らは皆、国民を幸せにすると約束しましたが、彼らのイデオロギーは1億人の人々を死と絶滅に導きました。 また宗教的なイデオロギーのせいで、自分の奴隷にするために群衆を引きつける見知らぬたくさんの支配者もいます。  度々、彼らは後に従った自分の弟子たちを集団自殺に導くこともありました。

  これらの人々と全く反対に、イエスはご自分の命、愛、赦し、神の子の自由を豊かに与えることによって、私たちを導きます。 イエスは死の門ではなく、命の充実にまで導きます。   イエスの教えは、律法やイデオロギーではなく、正義と平和と命の道です。 私たちがイエスと同じ方向を見るように、つまり、父なる神を見るようにイエスは教えています。  神を見る人は必ず自由を味わいます。 イエスは行くべき方向を与えますが、私たち一人ひとりが指し示された目的地に、どのように辿り着くかその方法は自由に選ばなければなりません。 神を自分の父として信仰の内に見る人や、揺るぎない信頼の内にイエスの傍に留まる人は、必ず自分が命の道を歩んでいる事と、神に栄光を与える豊かな実を結ぶことを知っています。

 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とイエスは言いました。 ですから、命の充実へ私たちを招くイエスの声を聞きましょう。 イエスが個人的に語っている言葉を聴きとめる人には、完全な自由が約束されています。 イエスの言葉が生涯に渡って、その人を驚くべき出来事から驚くべき出来事へ、不思議な業から不思議なわざへ導くでしょう。 さらに、イエスの言葉がその人に聖霊の力を与え、その力によって、その人は永遠の命の泉である父なる神の方へ、安全に言い表せない喜びのうちに導くでしょう。 アーメン。



        復活節第5主日 A年    2014518日   グイノ・ジェラール神父

                使徒6,1-7  1ペトロ2,4-9  ヨハネ14,1-12

   ペトロとトマスとフィリッポの三人の使徒は、イエスの言われたことを中々分かりませんでした。 先ず、ペトロは単純な質問でイエスに尋ねました。 「主よ、どこへ行かれるのですか?」と。 イエスはそれに答えずに、ペトロに次のように言いました。 「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(ヨハネ13,36)と。 それを聞いたペトロは激しく反応して「なぜ今ついて行けないのですか。 あなたのためなら命を捨てます」と言い返しました。 全人類を父へ導く道を開くために、イエスが先ず死ぬことと復活することが必要だったのを、まだペトロは理解していませんでした。 キリストの復活と聖霊降臨の時に授けられる聖霊の賜物だけが、イエスに従う力をペトロに与えるでしょう。

   30年後、ネロ皇帝の迫害から逃げようとしたペトロは、アッピア街道でローマへ向かうイエスと出会って、同じように質問しました。 「クォ・ヴァディス、即ち主よ、どこへ行かれるのですか?」と。 「あなたが私の名のために苦しむことを否定するので、あなたの代わりに十字架につけられるために、私はローマへ行くのです」とイエスはペトロに答えました。 すると、ペトロはすぐローマに戻って、30年前に勇ましく宣言したことを実現しました。 「あなたのためなら命を捨てます」と。 父なる神の方へ行く為に、私たちは苦しんでおられる復活したイエスを道づれとしなければなりません。

   さてペトロのすぐ後、使徒トマスが討論に加わります。 イエスがはっきりと話さないことで、トマスは苛立って次のように述べます。 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちは分かりません。 どうして、その道を知ることができるでしょうか?」と。 その時も弟子たちの心を騒がせる言葉でイエスは答えます。 「わたしは道であり、真理であり、命である」と。 言い換えればイエスは次のように断言します。 「わたしを通って行かなければ、誰も父なる神の所へ行くことが出来ません。 あなたたちが理解しても、しなくても、他のやり方がありません」と。

  そこで使徒フィリッポも苛立って次のように文句を言います。 「主よ、あなたは『父』『父』と繰り返し、繰り返しおっしゃいますが、一度その『父』を見せてくださったら、皆があなたの話しを容易に理解するでしょう? ですから父を見せてください。 そうすれば満足です」と。 しかしイエスが与えた答えは、また弟子たちの心を騒がせます。 「わたしを見たものは、父を見たのだ」と。 見ることが出来ない父なる神を見るために、イエスは自分自身を神のみ顔として啓示しました。 数日後、エマオの道でなさるように、弟子たちが過去の出来事を悟るために、イエスは彼らの考えと眼差しを変えようと努力します。 「こんなに長い間一緒にいるのに、私が分っていないのか?」 きっとイエスは、私たち一人ひとりにも同じことを言うでしょう。 「わたしをまだ知らないのか? 考えなさい、長い年月と数えきれない月日を通して、どこへ私があなたを導いたか? ご覧なさい、どのように私はあなたの人生を豊かにしたかを? こんなに長い間一緒にいるのに、私が分っていないのか?」と。

  今日イエスは、私たちに使徒ペトロの質問によって尋ねます。 「あなたたちは、どこへ行くのですか?」と。 イエスはどこへ行くかをよく知っています。 父の所へ行き、父のために生きているのです。 授けられた洗礼によって、私たちは父なる神の心に置かれています。 イエスに従って、私たちもこの父の所へ行くように召されています。 父なる神は私たちの人生の最後の目的です。 永遠の昔から父なる神はご自分の心の中で、私たちのために場所を用意しました。 私たちの人生の終わりに、神が私たちを待っておられます。 ご自分の親密さと神聖に私たちを受け止める為に、憐み深い父は腕を大きく開くでしょう。

  私たちの人生は意味があるとイエスは教えています。 「心を騒がせるな。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。 こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることとなる」と。 確かに、イエスはご自分の父であり、私たちの父である神にまで導く安全な道です。 この事実は今日・明日のことではないし、まして、遠い未来のためではありません。 私たちは既に父なる神を知っています。 「わたしを見た者は、父を見たのだ」とイエスは証ししています。 信仰によって私たちは既に永遠の命に入っています。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ5,5)と使徒パウロはローマ人への手紙の中で記しています。

  今、私たちは神の無限な愛を味わうことが出来ることを信じなければなりません。 ですから、キリストによって、キリストと共に,聖霊の力と交わりの内に絶えず父なる神の方へ進むことを学びましょう。 イエスは驚くべき約束をしました。 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」とイエスは誓いました。 そう言われたイエスは、私たちを父なる神と親密に結び合わせます。 ご自分が神と味わっている親密さを私たちも味わうように、イエスは毎日私たちを迎えに来ます。 神との関係、即ち神との交わりが一人で、あるいは家族との祈りと神の言葉の黙想によって日常生活の中で行われています。 ここに洗礼の秘跡の司祭職の局面があります。 洗礼を受けた私たちは、ミサ祭儀を通して神との愛の交わりに生き、またその関係を祝うことが出来るのです。 ですから、命と真理の道であり、救い主、あがない主であるイエスを 私たちに与えてくださった父なる神に感謝しましょう。 アーメン。



      復活節第6主日A    2014525日    グイノ・ジェラール神父

           使徒8,5-814-17  1ペトロ3,15-18  ヨハネ14,15-21

   使徒言行録の書物の中で、ルカはフィリポの物語を語っています。 フィリポは未亡人たちの世話の為、また物質的な分配の為に選ばれた7人の中の1人です。 キリスト者の最初の迫害を避けて、フィリポはエルサレムからサマリアへ逃げました。 ユダヤ人にとっては、サマリアは異端者の国です。 迫害者のユダヤ人たちは、霊的な汚れを避けて不潔な者とならないように、この国には絶対に入りません。

    ですから、すっかり安心してフィリポは、てまらうことなく、直ぐこの国で、サマリア人の福音宣教のために全身全霊を尽くします。 フィリポは優れた業で神の言葉を告げ、悪霊を追い出し、病人を癒し、そして洗礼を授けます。 彼の行いの噂を知った使徒たちは、すぐフィリポの所に行って「あなたが選ばれたのは、この様な事をするためではなかった」と言わずに、フィリポが実現したことを見て、使徒たちは非常に喜びました。 フィリポの宣教活動のお陰で洗礼を受けた人々に、使徒たちは聖霊の賜物を授けることが出来ました。 この時からサマリアの教会が、しっかりと設立されたと言えるでしょう。

    今日ルカの物語は、私たちが責任をとるように招いています。 というのは司教や司祭たちの命令あるいは彼らの許可を待たずに、私たちは自分たちの周りに福音を述べ伝える責任を勇敢に取らなければなりません。 確かに洗礼を受けた私たちは、キリストと与えられた聖霊によって、人々に福音のよい知らせを伝えるために遣わされています。

    第二の朗読を通して、責任を取ることは力を振るうことや人々を挑発するのではないとペトロは教えています。 キリスト者の責任は「正しい良心や柔和、尊敬を土台としています」と聖ペトロは言います。 「私たちが抱いている希望について説明するために」私たちはまず、信じたことを理解しなければなりません。 私たちの信仰が絶えず成長し、強くなるために、私たちの責任は個人的な努力の内にあります。 ちょうど生まれる時、人の目がブルーであるのか黒であるのか、誰もその色を変化できないように、残念ですが大勢のキリスト者は、洗礼を受けた時に既に最終的に完全な信者であり、自分の信仰を絶えず養う事が必要でないと思い込んでいます。 しかし、ピアニストやスポーツマンが競争に耐えるために、毎日練習する必要があるように、もし私たちの信仰が毎日養われ、強められていないなら必ずこの信仰は衰弱します。

    人生の中に思いがけない出来事が現れる時、どのようにして自分の責任を果たすかを今日の福音は教えています。 イエスは何よりも先ず愛することを要求します。 「わたしの掟を受け入れそれを守る人は 私を愛する者である。 わたしを愛する人はわたしの父に愛される。 わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」とイエスは約束します。 キリスト者として忠実に自分の責任を果たすために、私たちはイエスを愛するべきです。 そうすれば、すべては可能となります。 何故ならこの世の人々と違って信仰に生きる私たちは、聖霊の認識をイエスを通して父なる神の交わりに与っていますから。

    死に至るまでの従順の模範を与えてから、イエスは天に昇る前に自分の弟子たちに責任を取ることを呼びかけます。 父の方へ行くことで、これからは弟子たちが神の国の未来の責任を持っている人であることを、イエスは彼らに啓示します。 彼らを責任者とすることで、イエスは教会に未来を与えようとしました。 そのために私たちは「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」と言い、即ちそれは「教会が使徒たちを土台にしていることを」宣言します。 もし教会に対して私たちが自分の責任を果たさないなら、教会は発展することも、成長することも中々出来ません。 はっきり言うと、キリスト者としての私たちの人生は責任のある生き方です。

    私たちは習慣的にキリスト者として生きているので、もはや「ものを膨らせるパン種や世の光や地の塩」と言う特徴を失っています。  洗礼を受けた時に「おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちに与えられたのです」(2テモテ1,7)と使徒パウロは言いました。 ですから責任を取る人が勇気を持って、自分の生き方によってキリストに属していることを自分の周りにはっきりと勇敢に告げ知らせる必要があります。 聖霊の働きかけを妨げないように、私たちはイエスを初め、兄弟姉妹を愛すること、そしてこの世の人々が神を信じるように祈る責任を取ることを実践しましょう。 アーメン。



          主の昇天の祝日 A年   201461日   グイノ・ジェラール神父

               使徒 1,1-11  エフェソ 1,17-23  マタイ 28,16-20

    毎日曜日、私たちは次のように教会の信仰を宣言します。 「主は、天に昇って、全能の父である神の右の座に着きました」と。 この言い方は「イエスが神の栄光の内に入りました」と言うことを意味します。 「天に昇ること」と「神の右に座ること」は同じ意味を表すからです。

   この信仰宣言は非常に大切です。 この宣言はフィリピの信徒への手紙の中で、聖パウロが教えたことの短いまとめです。 その教えを聞きましょう。 「キリストは、神の身分でありながら、自分を無にして、へりくだって、僕の身分になりました。 それゆえ、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです」(参照フィリピ2,6-11)。

    主の昇天は人間としての私たちの運命を告げ知らせます。 罪のせいで堕落した私たちを立ち上がらせるために、イエスは人間になりました。 信仰によって私たちがキリストの神秘的な体となったので、キリストと同じように、神の栄光の内に上げられるように私たちは召されています。 頭であるキリストは神の内に留まります。 しかし、私たちはイエスの体の部分ですから、既に私たちはイエスの神性と栄光に与かっています。 そう言う訳で、主の昇天は大きな希望の祝い日です。 確かに頭であるキリストがいるところに、彼の体の部分である私たちも一緒にいるはずです。 この良い知らせを世に伝える為に、私たちは皆神によって選ばれた者です。 私たちの未来とは、全人類のあがないであり、また、神の子たちの栄光に輝いている永遠でもあります。

    そういう意味で、私たちは主の昇天を祝う必要があります。 新たにされた意志をもって、私たちがキリストと一致するように協力しましょう。 そうすれば、キリストと共に私たちも全人類も神の栄光の内に上げられることになります。

    主の昇天の神秘は存在と不在の神秘です。 ご自分の不在が実り多いものであることをイエスは望みました。 ところで、愛する人が不在している時、私たちは急に寂しくなり、不安を感じます。 そういう理由でイエスは私たちに忠告しました。 私たちが豊かな恵みで満たされるように、イエスの不在が絶対に必要です。

    イエスはご自分の不在の豊かさの神秘を詳しく教えました。 「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる…わたしは聖霊をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16,7)。 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14,18)。 「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16,13)。 確かに、聖霊は私たちを「キリストの教会」として集めています。 私たちが兄弟姉妹として生きる可能性を聖霊は与えます。 また、福音宣教のやり方を捜し、見付けるように、聖霊は私たちを助けます。 聖霊のお陰で私たちは神の言葉を理解し、その言葉で生きる恵みを受けています。 そうして私たちを聖化するために、聖霊は教会の秘跡によって私たちの信仰を養い、強めています。

    エフェソ教会への手紙の中で聖パウロは同じことを断言します。 主の昇天は神の光に私たちの心の目を開きます。 イエスの不在は、キリストにおける信仰が私たちにどのような希望と栄光を与えるかを理解させます。

   しかし、目に見えないキリストの存在を感じることが出来るでしょうか?勿論、矛盾なことですが、キリストの不在はイエスが世の終わりまで、毎日一緒にいる確実さを与えます。 神が私たちの弱さの内にご自分の力を現す時、また日常生活の試練が私たちを苦しめる時に、私たちはこの不思議で豊かな存在を感じ、確かめることが出来ます。  生涯に渡って私たちに伴う神の摂理も、それについて証しします。 神の摂理はキリストの存在の具体的な、目に見えるしるしです。

   主の昇天のおかげで、全人類は既にそして永遠に神の神秘の内に上げられています。 ですから、私たちの救い主イエス・キリストを通して、不思議な業を実現する父なる神に心を込めて感謝しましょう。 主イエスは私たちのために天の門を大きく開きました。 ですからイエスに従って、聖霊の喜びで満たされ、無限の愛で私たちを愛する神の神秘のうちに入りましょう。 アーメン。



       聖霊降臨の祭日 A年   201468日    グイノ・ジェラール神父

            使徒2,1-11 1コリント12,3-712-13 ヨハネ20,19-23

    聖ヨハネは、復活の日の夜に聖霊が弟子たちに与えられていることを宣べています。 聖ルカによると聖霊降臨の日に弟子たちを変化させる為に、聖霊が与えられていたことを語っています。 この二つの話の間に矛盾は全くありません。 と言うのは、聖書全体にわたって聖霊はいつも風のように自由に働くことが示されています。 「聖霊は風のように思いのままに吹く」(ヨハネ3,8参照)。 このようにヨハネとルカの物語はお互いに補い合っています。 一方、ヨハネは復活されたキリストを囲んでいる弟子たちに、聖霊によって与えられている平和と喜びについて強調します。 他方、ルカは聖霊の働きかけについて語ります。 つまり、風、火、舌の姿をかりて聖霊が全ての人にイエスの復活の事実を見せ、聞かせ、感じさせることを説明します。

    愛の竜巻のように聖霊は私たちを神の命に巻き込みます。 いくら風の息吹が聖霊を現わしていても、聖霊の特徴は先ず愛です。 聖霊は私たちの内にある愛する能力を新たにし、深めます。 もし自分の心の中に真の愛があるなら、それは聖霊が私たちに与えられているからです。 聖パウロはローマ人への手紙の中でそれを思い起こさせます。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれています」(ローマ5,5)と。

    言い換えれば聖霊とは、私たちの心に留まり、私たちの人生を分かち合い、私たちと一致したい神ご自身です。 神は私たちにご自分の英知と神性に与らせたいのです。 私たちは個人的に聖霊の賜物を受けていますが、同じ聖霊が私たちの共同体にも与えられていることを忘れてはいけません。 確かに、かつてと同じように今日も聖霊は愛の完成まで武庫之荘の共同体や大阪教区や世界に広がっている教会を導こうとしています。

    また、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 教会の中での務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 一人ひとりに霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(コリント4,4-7)と私たちは知っています。 聖霊が一人ひとりに与えられたのは、皆の利益と信仰の成長のためです。 私たちの共同体に聖霊が本当に与えられているしるしは、先ず平和と喜びです。 それらのしるしなしには、私たちが決して信仰の証しと愛徳の証しの賜物を受けることは出来ません。 自然に平和、喜び、愛徳の賜物の後で、福音宣教の賜物が与えられているのです。 それは第一の朗読と福音によって具体的に示されています。

    しかし、臆病である私たちは自分に閉じこもっているので、自分の心のドアの鍵を固くかけています。 この状態を見てイエスはわざと聖霊の力を持って、私たちに次のように指示します。 「あなたがたを遣わします。 聖霊はご自分の力であなたを満たすので言うべきことを必ず教えるでしょう。 全世界へ行って恐れずにすべての民を私の弟子にしなさい」と。

    ですから、今日こそイエスの名によって聖霊が私たちの偏見、臆病、赦しの否定、恨み、そして自分勝手な思い込みなどを全て灰まで焼き尽すように願いましょう。 むしろ、愛に燃え上がる私たち皆を、終わりのない喜びと平和のうちに聖霊が一致させますように。 最後に、聖霊によって私たちが熱心な証し人となって、どうしても神の無限の愛と救いの計画を全ての人に知らせる人となりますように。 アーメン。



       三位一体の祭日 A年   2014615日   グイノ・ジェラール神父

          出エジプト34,4-68-9  2コリント13,11-13  ヨハネ3,16-18

    出エジプト記によれば、シナイ山の上で神がご自身をモーセに啓示したそうです。  慈しみ深い、憐れみ深い神として、また怒るに遅く、愛と忠実に満たされた神として、神はご自分を自己紹介なさいます。 しかしヘブライ語で啓示された言葉の意味を、ヘブライ語が伝えているように聞いて、理解する必要があります。 と言うのは、ヘブライ語には「慈しみや憐れみ」というような抽象的な言葉はありません。 ヘブライ語は、人間の体験と繋がっている単語やその体験を思い起こす具体的な言葉しか使いません。

    このように私たちが「慈しみ」と翻訳する単語は「母の乳房」を思い出します。 自分の乳飲み子に乳を飲ませる母のように、神は優しく愛情深い方です。 「憐れみ」はヘブライ語で「不幸と惨めな状態の中に、誰かがいるのを見ることが我慢できない人」を指します。 私たちの幸せを望む神は、私たちに救いの手を指し延ばさずに居ることに耐えられません。 同じように「愛」はヘブライ語で「男が女に対して覚える魅力」を意味します。 ご自分が創造した人間に対して、神は引き付けられ、私たちと共に愛の交わりを親密に生きたいと望まれます。 最後に「忠実」と言うヘブライ語の言葉は、「強い岩の揺るぎない安定性」を現します。 神は決して変わらないので、神により頼み、神に希望をおく人は決して絶望しません。 私たちが信じたり、愛したり、礼拝したりする神はこのように具体的に啓示されている神です。

      ニコデモにご自分の父なる神を紹介する時、イエスは神学的な難しい演説をなさいませんでした。 イエスは簡単に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とおっしゃっています。 この身近な文章は「全人類に神が与えている信頼」と同時に「私たちが神に現すべき愛」を示します。

     最初の朗読によれば 神は天から降って、モーセのそばに神が立って来られたそうです。 これもイメージを使っているヘブライ語の具体的な教えで、神はモーセと共にいて、彼の生涯に渡って一緒に歩む神であることを意味しています。 全ての旧約聖書の話しと出来事を完成するために、人間になった神であるイエスは私たちと共に歩み、世の終わりまで私たちの直ぐ傍に伴っています。 またイエスが遣わされた聖霊も私たちを強め、慰め、教え導き,聖とします。 三位一体の神がこのように私たちを大切にするので、私たちは益々神に倣い、神のように完全で聖なる者となる為に努力しなければなりません。 それはちょうど、神が完全であり(マタイ5,48)、聖である(レビ記11,43)ように。

    イエスは父なる神と同じように、人々と出会おうとしている方として、いつもご自身を啓示します。 イスラエルの歴史の初めに神がシナイ山で栄光の内にご自身を啓示なさったように。 イエスも復活の栄光の内に、毎日曜日、私たちと出会うのです。 昔、モーセが体験したように、ミサの祭儀に与かる度に、私たちにも神の親密さを味わうチャンスが与えられています。 何故なら、ご自分の命に私たちを生かす為に神はご自分の言葉と体で私たちを養っておられるからです。 ちょうど母親が自分の子を養うように、また父親が自分の息子を育て教えているように、全身を尽くして神は私たち一人ひとりの世話を成しうる限り、力を尽くしてなさいます。 しかし、私たちは神のためにいったい何をしているでしょうか?

    私たちに対する神の愛は揺るぎない岩のように堅固であり、永遠に注がれています。  神は母親のように慈しみをもって私たちを愛していることをよく理解しましょう。 私たちが不幸であり、病気であることを神は耐えられません。 恋人が、いいなずけを愛している力で神は私たちを愛しています。 そのために、神もイエスも、度々ご自身を花婿と比較しています。 ですから私たちも心と魂を尽くして神の愛に応えましょう。 「神はこの世を愛するほどに、私たちにご自分の子イエスを与えました。 誰であろうと皆が無限の愛で愛されています」と自分たちの周りに宣言する事によって、神の愛の喜ばしい証人となりましょう。 三位一体の神の栄光を祝うことによって、この愛が自分自身に染み込みながら聖なる者となりましょう。 アーメン。



      キリストの聖体の祭日 A年  2014622日  グイノ・ジェラール神父

            申命記8,2-16  1コリント10,17  ヨハネ6,51-58

    聖体は復活することの約束です。 イエスは命であり、また彼の体は永遠の命のパンであります。 私たちは自分たちの内にキリストを受けることで、復活した者としてイエスの命を受け留めるのです。 いまも生きておられるキリストに結ばれている私たちは、イエスと共に復活し、永遠に生きるように召されています。

    さて、毎日私たちが食べるものは、私たちの体に消化されて肉や血、エネルギーなどになります。 しかし聖体を頂く時には、全く違うことが実現されているのです。 というのは聖体拝領する度に、即ちキリストの体を食べる度に、私たちの肉体的な存在が変容され聖とされ、そして私たちは増々キリストに似る者となり、キリストの体となります。 そういう訳で、聖パウロと共に私たちは、真理をもって、次の事を宣言出来ます。 「生きているのは、もはやわたしではありません。 キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2,20)。 「わたしにとって、生きることはキリストです」(フィリピ1,21)。 「わたしたちの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」(コロサイ3,3)。 確かにわたしたちは、もはや自分の為に生きることなく、わたしたちのために死んで復活されたキリストに生きていかなければなりません(奉献文4)。

    私たちの手にご聖体が渡される時、司祭が「キリストの御体」と言い、皆さんは「アーメン」と答えます。 もし司祭が手を伸ばして皆さんを指して「キリストの御体」と言うなら、皆さんは確信をもって「アーメン」と答えるでしょうか。 聖パウロにとっては、聖体とキリストと教会との間に全く違いがありません。 何故なら、ミサ祭儀と聖体の神秘を通して「キリストの体である教会」の神秘が実現され、私たちはその神秘を生きているからです。 言い換えれば、キリストの体を拝領しながら、私たちは実際にキリストの神秘的な体となると同時に、キリストの教会となります。  聖パウロはこの神秘を次のように説明します。 「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。 皆が一つのパンを分けて食べるからです」(1コリント10,16-17)。 そして聖アウグスティヌスは次のように書きました。 「あなたは『キリストの御体』と聞くとすぐ『アーメン』と答えます。 あなたの宣言した『アーメン』が真実であるように実際にキリストの体の部分となりなさい」と。

    祈りと聖体拝領によって、キリストに近くなればなるほど、私たちの霊的な生き方は強くなります。 実に知らないうちに、私たちからある種類の平和が湧き出て、この平和が周りの人々に、分かち合う希望、赦す勇気、神を賛美する誘いを与えます。 そう言う理由で、私たちが出来るだけキリストと親密に一致することをイエスは願っています。 「もし私たちが『神の賜物』を知っているなら」(ヨハネ4,10)、そして自分たちの内に留まりたいお方が誰であるかを知るなら、きっと私たちは日常生活のために必要な力を汲むために、度々聖体拝領をして、しばしば祈りによってイエスのすぐ傍に行くでしょう。

      神の言葉も聖性と命の泉であります。 真理と命の言葉であるイエスの話しに耳を傾ける人は、自分の内に聖霊が深く働くことを可能とします。 神の言葉を受け留め、実行する人に命と知恵の恵みが豊かに与えられています。 「雨は天から降れば地を潤すように、神の言葉も神が望むことを行います」(参照イザヤ55,10-11)。 そのために聖書を読み、黙想する時に私たちは神の言葉を自分のものとするために聖霊の光を願うのは必要不可欠なことです。 このようにすれば、必ず神のみ言葉が私たちの内で、聖性と命の泉になります。

    神の言葉を味わい、ゆっくり楽しむこと、またキリストの御体と御血をいただくことは、私たちを神の親密さの中に導き入れます。 聖体拝領をする度に、私たちは信仰の神秘がどれ程偉大であるかを宣言します。 ご自分の死と復活によって、イエスは人を神と結び合う愛の神秘に与からせます。 この愛の神秘は、私たちをキリストの体の部分とする偉大な神秘です。 ですから、心を尽くして神に感謝しましょう。 アーメン。



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